「amadatasuku.com」のブログ

パチン、の前が思い出せない

パチンとゆびが鳴る音がして、
「で」と目の前のシカが言った。横を向いたままでもこちらを見ている。

「で、シカスイッチはちゃんとONにしてくれたんだろうね」

僕らの会話がその質問に至った経緯は憶えていない。
パチン、の前が思い出せない。
シカのことは前から知ってるような、自分の眉間のあたりにそんな記憶の感触がのこっているけどさだかでない。
ここがどこかもわからないけど、シカがいて、誰もいなくて、神社と野原。だから、奈良？
わからないから、一旦、奈良。誰もいなくて今シカとふたりっきりだから、奈良の、奥の方だな。

「シカスイッチは」

念を押すようにもう一度ゆっくりと言う。

「針をONのほうにしておいてくれたんだろうね」
「さぞかし」
「さぞかし」
いつのまにか小さなシカが左右に二頭、あらわれて交互に言葉を付け加えた（「さぞかし」）。

僕は3対1でシカの数が優勢になってしまったことのほうに気を取られていた。
それに気づいたようにして、小さなシカがさらに左右に歩みを広げて、
計3頭で僕を囲むようなかたちに、ゆっくりなった。さぞかし、さぞかし、と小さくつぶやきながら。

「さぞかし」という言葉の使い方、ちょっとなんか違う、と思ったけれども、黙っていた。おそらくいまはそこじゃない。
小さいほうのシカを見る。右、左。二頭とも小さいけれど子ジカではなく、縮尺の違う世界に住む大人のシカだと直感でわかる。わかるのだけど、縮尺の違う世界っていうのがなんなのかはわからない。「でもそうなのだ」と、わかるだけ。

「針をな」

大きいシカがシビレを切らし始めてる。
こんなときキミならどうする？

僕は、「あ」って思ったんだ。
パチン、の前が思い出せないなら、そこに答えを求めてみたらいい。
ゆびをパチンと鳴らしたら、この世界が終わってあたらしいシーンが始まるのでは。

もぞもぞ、としてゆびを鳴らす体勢になる。ゆびを鳴らす体勢って、ひじを曲げてゆびを鳴らす準備をしながら、中腰に。鳴らさないほうの手は開いて水平に。そんな大袈裟な姿勢は、これであたらしいシーンに移行できるかもという、根拠はないけど、期待を表していた。

パチン。

「で、シカスイッチはちゃんとONにしてくれたんだろうね」

目の前の一頭のシカが言った。横を向いたままでもこちらを見ている。
奈良の、奥の方だ。

　

さいきんのおばけ観 2017年1月

電柱のかげになる、むこうがわに、もこもことした棒のような。

そのおばけは、こちらを見ているの、だろうかな。

それがおばけだというのはわかる。

そうなんだけれども、目？　のようなもの。　がほんとうに目で、

それがほんとうに僕の存在を捉えているのか、判然としない。

とにかくそのおばけは電柱のかげでからだをかしげて、

僕のことを感じているような、気配がある。

こんなにもはっきりと見えているのに、たしかなことはひとつもない。

気配を感じているらしい気配が、僕と彼のあいだを埋めるように漂っている。

やがてドライアイスのスモークを払うみたいに横から風が吹いて、

気配が流れてハッとする。

いまなにを考えてたのか、忘れてしまう。

2016年8月15日 てくてく

「お、あいつ、今日もてくてく歩いてる。」

そう聞いて、誰を思い浮かべるか、というのはけっこう大事なことだと思うのですよ。

世の中には、てくてく歩く人と、そうじゃない感じで歩く人がいる。

といってもきっと、その様子がてくてくなのかてくてくじゃないのかというのは、僕が（あなたが）勝手に決めていて。

ただ歩いているだけの様子を見て（想像して）、それを「てくてく」と言い表したくなるのは、好きな人に限られる（恋愛の「好き」ではなくて、もうちっと広い意味で）。
きらいな人が歩くのを見て「てくてく」と感じないのはなぜだろう。
不思議。不思議。

誰かが歩くのを見て、そこに「てくてく」を見い出すのは、なんだかなぜだか、愛なのだよね。

てくてくを
世界で初めて
てくてくと
表した人の
まなざしを見たい

2015年12月25日 郵便局

昼下がり。家を出て郵便局へ向かう。信号を待つ。

年末とはいえ、まだ平日の昼間は街がおばあちゃんたちのもの。あっちをみてもおばあちゃん、こっちをみてもおばあちゃん。ときどき、ちびっことお母さん。
お父さんを見かけないのはお仕事だからだとして、あんまりおじいちゃんを見かけないのはなぜだろう。将棋か？

と、いったふうな感じで郵便局へ到着。
カウンターで“番号札”をもらう。47番。

45番で呼ばれたおばあちゃんが、さっそうと隣のカウンターに現れる。

おばあちゃん「年賀状がいるんだけどね」

局員「絵柄入りだと、これとこれと、あとは無地のものがありますが」

ば「どれどれ、絵柄の見せて」

局「こっちは猿で、こっちはトトロですね」

ば「じゃあトトロ見せて」

局「いかがでしょう」

ば「んー、じゃあそっちの猿のも見せて」

局「（にこにこ）」

ば「んー、ほかにはどんなのがあるの？」

局「あとは無地しかないですね」

ば「じゃあ無地見せて」

え、無地、見るんだ。
局員さんがしずしずと、真っ白なハガキをおばあちゃんに差し出す。
おばあちゃん、無地を見る。

ば「んー、なるほどね」

そのなーんにも書いてない白い平面に、おばあちゃんはいったい何を見てるんだろう、この感じ、何かに似てる。ジョン・ケージだ。
ジョン・ケージの『4分33秒』が郵便局じゅうに響き渡っているみたい。
大音量で、かつ、僕にしか聞こえないボリュームで。

あるいは、
じっと動かずハガキ（無地）を鑑賞するそのおばあちゃんは、『4分33秒』を踊っている、とも取れる。

なんだか世田谷の平和な昼下がりらしからぬ雰囲気になってきたところで、ちびっこが泣く。
待て、ちびっこ。いま、いいところ。

でも静けさは崩れてしまう。

ば「……なんにも書いてないね」

それを聞いてなんだか安心する。

「47番でお待ちのかたー」

一度静けさが去ると、おばあちゃんは小銭をじゃらじゃら落とすわ、ちびっこは本格的に泣き出すわで、てんやわんや。
さっきからずっとこんなにうるさかったような気もだんだんしてくる。

「47番でお待ちのかたー」

はっ、47番は僕のばんご
「48番でお待ちのかたー」

間に合わなかった。

ドーナツ ある／ない

あれ、と思って気づいたけれど、キンモクセイのにおいがしなくなっている。
街へ出かける道すがらに、やだな、銀杏のにおいがする、と思った次に、
あれ、そういえばキンモクセイのにおいがしていない。
「においがする」ということに比べて「においがしない」ということには気づきにくい。
「ある」ことよりも「ない」ことには意識が向きにくい。

人には「ない」を直接感じ取る感覚器官は備わっていない。
「ある」ものしか、見たり、嗅いだり、触ったりすることができない。
「ない」を感じるには、もともとそれがあった周辺や代替のものを見たり、嗅いだり、触ったりして、ないものの輪郭を浮かび上がらせるように間接的に感じ取るしかない。

街へ行く道すがらの、キンモクセイのにおいがしてた景色。代わりに漂っている銀杏のにおい。
それらを媒介とせずに直接、キンモクセイの存在の「なさ」を感じ取ることができない。
ドーナツの穴は、ドーナツという周辺が存在しないと立ちあらわれないのに似てる。

それで帰り道はドーナツ屋さんへ立ち寄った。
「持ち帰りで。」と店員さんに言う。
（「持ち帰りでお願いします。」の「お願いします」を省略してしまうってなんだか大胆な慣習だと思う。）
ドーナツを持ち帰るのは、家で待ってる好きな人と一緒にたべようと思っているから。
いまここに「いない」人の、ドーナツの箱を差し出したときの顔を思い浮かべたりして、店を出る。キンモクセイのにおいがしない、同じ道を通って帰る。
ドーナツ、喜ぶだろうなと思ってうきうきしたり、驚くだろうなと思ってしめしめとなったり。
その人はここに「いない」のに、相手の気持ちを、ちょっとフライングして感じ取ろうとしている。いまはまだ目の前に「ない」ものを、まだ「ない」気持ちを、感知しようとしている。これはなにか。
「ない」ものを感知するのに有効なのは、身体的に備わった感覚器官を働かせることではなく、“想像をすること”だということか。
“想像”は、かたちを持たないものを感じとるための、かたちを持たない感覚器官だ。

彼女はよく寝言を言う。
家に帰り着くと、好きな人はリビングでごろんとしていて、タオルケットを休日の象徴のようにして眠っている。
「ドーナツあるよー。」と寝耳にささやこうとして近づくと、例の寝言で「あー、おいしかった。」と先に言うので黙ってしまった。
どんな夢を見ているにせよ、彼女はいま（夢のなかで）満腹だ。寝耳を通していまその夢にドーナツが吹き込まれても、起こしてしまってその満腹が想像上のものだと気づかせてしまっても、どちらにしてもあんまり喜ばれなそうだ。

夢のなかの満腹感を尊重してあげることは、かたちを持たない夢、つまり「ない」ものと、起きて現実の世界にいる僕や、僕が買ってきたドーナツといった「ある」ものたちとの境界が薄れていておもしろい。
満腹な夢を堪能して目が覚めたら、そのあとゆっくりドーナツをたべれば二回も満足でお得だなということで、一旦ドーナツはあとまわしにすることになった。