
遠い記憶を思うときに、一緒に逆光を思い描くのはなぜでしょうか?
大切な思い出は自分の記憶のなかにあるはずなのに、見えそうでうまく見えない。聴こえそうでよく聴こえない。感覚のほんのすこし先にいつもあります。
一緒に逆光を思うのは、思い出にはそんなふうにかたちがなくてさわれないのが、ちょうど光みたいだからでしょうか?
目の前で掴むことができるいま現実のできごとを思い出とは呼ばないし、
掴めないほど遠くにいってしまってはじめて思い出と呼ぶんだから、そりゃあ手がとどかなくて当然か。
今日はおまつりに行ってきました。
おまつりの日だけは、
どこだか見えない遠くから聴こえるお囃子の音や、よく知らないずうっと過去に生きた人の気配や、そういう遠くのいろんなものがぜんぶ、縁日のあちこちから僕たちを照らすまぶしくて赤い光にまじってなんだか、さわれないはずの誰かの思い出の中にいるみたいな気持ちになりました。
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