パチン、の前が思い出せない

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パチンとゆびが鳴る音がして、
「で」と目の前のシカが言った。横を向いたままでもこちらを見ている。

「で、シカスイッチはちゃんとONにしてくれたんだろうね」

僕らの会話がその質問に至った経緯は憶えていない。
パチン、の前が思い出せない。
シカのことは前から知ってるような、自分の眉間のあたりにそんな記憶の感触がのこっているけどさだかでない。
ここがどこかもわからないけど、シカがいて、誰もいなくて、神社と野原。だから、奈良?
わからないから、一旦、奈良。誰もいなくて今シカとふたりっきりだから、奈良の、奥の方だな。

「シカスイッチは」

念を押すようにもう一度ゆっくりと言う。

「針をONのほうにしておいてくれたんだろうね」
「さぞかし」
「さぞかし」
いつのまにか小さなシカが左右に二頭、あらわれて交互に言葉を付け加えた(「さぞかし」)。

僕は3対1でシカの数が優勢になってしまったことのほうに気を取られていた。
それに気づいたようにして、小さなシカがさらに左右に歩みを広げて、
計3頭で僕を囲むようなかたちに、ゆっくりなった。さぞかし、さぞかし、と小さくつぶやきながら。

「さぞかし」という言葉の使い方、ちょっとなんか違う、と思ったけれども、黙っていた。おそらくいまはそこじゃない。
小さいほうのシカを見る。右、左。二頭とも小さいけれど子ジカではなく、縮尺の違う世界に住む大人のシカだと直感でわかる。わかるのだけど、縮尺の違う世界っていうのがなんなのかはわからない。「でもそうなのだ」と、わかるだけ。

「針をな」

大きいシカがシビレを切らし始めてる。
こんなときキミならどうする?

僕は、「あ」って思ったんだ。
パチン、の前が思い出せないなら、そこに答えを求めてみたらいい。
ゆびをパチンと鳴らしたら、この世界が終わってあたらしいシーンが始まるのでは。

もぞもぞ、としてゆびを鳴らす体勢になる。ゆびを鳴らす体勢って、ひじを曲げてゆびを鳴らす準備をしながら、中腰に。鳴らさないほうの手は開いて水平に。そんな大袈裟な姿勢は、これであたらしいシーンに移行できるかもという、根拠はないけど、期待を表していた。

パチン。

「で、シカスイッチはちゃんとONにしてくれたんだろうね」

目の前の一頭のシカが言った。横を向いたままでもこちらを見ている。
奈良の、奥の方だ。

 
by amadatasuku | 2017-01-29 04:10

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