2010年 03月 11日
おほん。 |
おとなってばさ。
とかって、枯れた花をスキャナに乗せて撮影しているあいまにブログを書いているようなところは、(被写体のチョイスが)僕だってもうすっかりおとななのだけど、
おとなっていうものってばさ、
おじさん「若いっってぇのはいいことじゃあないか。わぁかいうちに、なぁんでも経験しなさいよ。ね。(ぐびり)」
とかって言うじゃんか。
彼らにとってはまだまだ子供の僕は、「うーん分かる気はするけど、頭でしかわかんないや。(心からは、ちょっと)」と思うのね。
きっとみんなそうじゃんか。
おとなとか子供とか、そういうのはいつまでたっても相対的なものでしかなくて、いつでも自分というのは見方によってはおとなだし、見方によっては子供なのだから、ときどきはおとなな気持ちでちょっと考えてみると。
なぁんでも経験しておきなさいよ、という気持ちにはやっぱりまだなれないけれど、いつでもたくさん音楽を聴いておくといい、というふうに思います。
人の知覚というのはきっと、視覚によるものが強いちからを持っていて、においや音や手触りは、多くの場合、視覚の記憶の手助けをしているみたいな気がします。
目で見たものを憶えるとき、「ちなみに」という感じに添えられて記憶される”その他の”感覚。
そうやって添えられた感覚たちというのは、目の前で起こった出来事を記憶することが圧縮だとするなら、それを解凍するときにはいつも「手がかり」になってくれます。
思い出を思い出すにはきっかけがかならず必要で、そのきっかけというのは視覚じゃないことが多いです。
「あの頃いつも聴いてた音楽」の価値、というのは、他人にいくら話しても絶対に全部は伝わってくれないものだけど、そのぶんだけ自分にとっては、とてもとてもたいせつなものになりますね。
だから思い出には、できるだけそれぞれに、「その頃の音楽」を添えておくことは大事なんだと、偉そうに言ってあげたいです。そうするとおとなになってから昔の自分に「でかした!(それとありがと!)」と思えるのだと、まあきっと分かってはくれないとしても、それでも伝えてあげたいと、そんなふうに思うのです。
思うのであるよ。おほん。
by amadatasuku
| 2010-03-11 23:59